馬は遥か昔から人間と共に生活してきました。
そんな馬はどんな歴史を辿ってきているのでしょうか。
馬を知る第一弾。
馬の進化と歴史についてご紹介します。
馬の分類
馬は奇蹄目に属する動物です。
蹄を持つ草食動物は有蹄類と総称されますが、有蹄類には奇蹄目の他に偶蹄目が存在します。
奇蹄目はウマ科の他に、サイ科、バク科が属し、合計3科。
偶蹄目はウシ科、イノシシ科、シカ科、ラクダ科などが属しています。
奇蹄目に属する3科は、進化の過程で第三指以外の指が大なり小なり退化しているのが特徴で
サイは前後肢ともに3本の指を有し、バクは前肢4本、後肢3本の指を有しているのに対し
馬の四肢の指は、第三指以外すべてが退化しています。
現在、ウマ科には1属7種がおり、馬の他に、モウコノウマ、アフリカノロバ、アジアノロバ、
グレビーシマウマ、ヤマシマウマ、サバンナシマウマの7種類が現存しています。
出典:新馬の医学書
ウマ類の進化
ウマ類の分類
奇蹄目に含まれる動物は、前述のように3科しか存在しておらず
同じ草食動物の中でも10科211種もいる偶蹄目に比べて、はるかに小さなグループです。
しかし、地質時代を通して奇蹄目は繁栄していた歴史があり
かつては偶蹄目を凌ぐ存在であったといいます。
その目に含まれる動物の数は、その目の成功度を物語っているとされますが
この点で奇蹄目は進化の流れの中では滅びつつあるグループといえます。
奇蹄目の衰退は、他の動物との競合で敗れたのではなく
気候の変化が主な原因と考えられています。
現在、ウマ類の進化の過程ほど明確に判明している動物はいないとされています。
その大きな理由として、化石資料が豊富であることがあげられます。
かつてウマ類は地球の環境によく適応しており、個体数も多かったと考えられています。
また、生息場所が化石の残りやすい草原であったこと
大きな群れを作っていたことも化石資料が豊富に残った要因といわれています。
出典:新馬の医学書
ヒラコテリウムの出現
現在、ウマ類の祖先種とされる最も古い化石は、6,500万年前の地層から出土したヒラコテリウム(和名:あけぼのうま)とされています。
ヒラコテリウムは、北アメリカとヨーロッパの森林地帯に広く分布していました。
体高は約30cm、前肢には4本の指、後肢には3本の指を有し
各指の先端に小さな蹄が備わっていました。
椎骨の棘突起がよく発達しており、ここには強大な筋肉が付着していたと考えられていて、
小型の動物でありながら高い走能力を有していたことが想定されています。
また歯の化石の特徴から、若芽や草の実など比較的柔らかい植物を主な摂食対象としていたものと思われています。
ヒラコテリウムはウマ類の最も古い祖先種ではありますが、この動物の特徴が初期の奇蹄類と共通であることから、奇蹄目全体の原型と位置づけられています。
後にヨーロッパのヒラコテリウムは姿を消し、それ以降ウマ類の進化は主に北アメリカを中心に
進んでいったとされています。
ディノヒプスの出現
北アメリカにおいてウマ類は、1本の幹のように進化していきました。
ヒラコテリウムは始新世中期にはオロヒプスへと、さらにエビヒプス、メソヒプス、ミオヒプスへと進化していったとされています。
中新世に入るとウマ類は、生活環境の多様化により、いくつかの発展系統に分岐しました。
分岐したいくつかの幹のうち、現在のウマ科に繋がる進化の主流は、メリキプスのグループで
あったと考えられています。
メリキプスはまだ、四肢それぞれに3本指が認められますが、第二、第四指は
かなり退化しており、体重は第三指で支える構造になっていたとされています。
また、歯は歯冠が高く、摩耗すると咬合面がやすり状になる現在のウマ科の動物と同じ機能を
有していました。
鮮新世になるとメリキプスを祖先として2つの系統が生まれました。
ヒッパリオンとディノヒプスの出現です。
このうち、ディノヒプスが現在のウマ科動物に直接つながる動物を考えられています。
ディノヒプスの第二、第四指はきわめて退化しており、四肢上部の皮膚の中に隠れています。
更新世になるとエクウスが出現し、これはまさに現世のウマ科動物の系統である
といわれています。
エクウスは北アメリカとユーラシア大陸とアフリカ大陸に分散していったとされています。
出典:新馬の医学書
ウマの歴史
先史時代
狩猟生活を送っていた先史時代の人類は、様々な動物を狩りの対象としていました。
そうした動物の中には、馬も含まれており、多くの場合 馬肉が先史時代の食料の中心
だったのかもしれません。
人類と馬の交流を示す最も古い証拠は、今からおよそ1万5,000年前の旧石器時代の洞窟壁画です。
あの有名なラスコーの壁画です。
出典:新馬の医学書
そこに描かれた図から、人類が馬を狩猟の対象としていたことが読み取れます。
また、同時期の地層から多くの馬の骨が出土しており、馬は当時 増加しつつあった人類の
食料としてだけではなく衣服、住居の素材を提供していたものと考えられます。
しかし、1万年ほど前から西ヨーロッパ、北アメリカの馬は姿を消し、
ユーラシア大陸の馬は絶滅こそ免れましたが、分布域は狭まっていったと考えられています。
ウマの家畜化
動物が野生から家畜化されると、その初期に形態的変化が生じます。
牛でいうなら、祖先種であるオーロックスから家畜化の過程で、
劇的に体系が小型化したことが認められています。
このような形態的変化が、発掘された化石から野生種か家畜種かを見分ける1つの鍵となりますが、馬は家畜化に伴う形態的変化があまり生じませんでした。
馬の家畜化を示す最古の化石は、南ウクライナの新石器時代の遺跡から出土しており、
紀元前3,500年頃と推定されています。
その証拠とされているものは、複数のハミの断片と摩滅した
小臼歯をもった馬の頭蓋骨の存在です。
小臼歯の摩滅は長期間にわたって、ハミが使用されたことによって生じたものとされています。
使役馬としての馬
役用家畜としては、古代メソポタミアでオナガー(アジアノロバの亜種)が使われていました。
しかし、この動物は扱いにくく、馬を役用家畜として使えるようになったあとは、
放棄されました。
また、馬のもつ力とスピードも、それまでの牽引用の動物に
とってかわっていった理由の1つといえます。
馬の有するスピードは人類の行動範囲を飛躍的に拡大させました。
馬は馬車の普及とともに本格化し、同時に戦争における有力な生物兵器として世界史における主要な役割を担うようになっていったのです。
生物兵器としての馬
紀元前1670年、アジアの騎馬民族が戦車部隊の力で古代エジプト王朝を征服しました。
しばらくの間、異民族の支配を受けていたエジプトが、その力を跳ねのけたのも馬の力でした。
また、古代ギリシャやローマでも馬が引く戦車は有力な兵器であり、平時におけるその競争は市民を熱狂させる娯楽にまでなっていきました。
騎乗して馬を利用するのが一般化したのは、かなり後になってからと考えられています。
馬に安定して騎乗し、制御するためには、ハミ・手綱・鞍・鐙が必要です。
これらの馬具が考案され一般化されるに従って、騎馬の技術は完成に近づき、やがて戦法としての有効性が馬の引く戦車を凌駕するに至ったのです。
馬はその時々の戦闘の形態に合うように改良が加えられました。
ヨーロッパ中世には、甲冑をつけた騎士が馬上でぶつかり合うという戦法がとられていたましが、馬もこの戦法に合うように大型で力強いグレート・ホースが作られていきました。
火器が発明されると、より身軽な馬が求められるようになっていったのです。
馬はわずか100年前までは、人類の歴史において最も重量で
生活に密着した家畜であり続けました。
しかし、近代に入り動力機関が発明され、馬は徐々にその役割を
機械に譲り渡していくことになります。
軍馬としての華々しい役割を終えた馬は、現在は乗馬や競馬などレジャーやスポーツに用いる動物として生産され飼育されています。
日本での馬の歴史
日本の国土一体にウマ科の動物が生息していたのは、第三紀中新世から更新世にかけての地層から馬の化石が出土していることからもわかります。
しかしその後、馬は絶滅もしくは移住していったと思われ長期間にわたって
空白の時代が続きました。
ウマに関連した遺物は、5世紀から6世紀にかけての遺跡から急に多く出土するようになりました。
恐らくは、この時代に馬や馬文化が中国大陸から渡来したものと考えられています。
武家社会でも騎馬が有効な戦力だったとされています。
各地で馬産が盛んに行われましたが、そのうち一貫して生産地であり続けたのは、
現在の青森県東部から岩手県にまたがる南部地方です。
この地域には、鎌倉~室町時代にかけて中国大陸から大規模な繁殖用の馬の移入が行われ、
より優秀な馬の生産が促されたとされています。
馬は軍事用だけではなく、平時の生活の中でも重要な存在でした。
江戸時代、水運の発達していなかった地域で、荷物を馬に乗せて運搬する輸送法が
盛んに用いられました。
宿場では、交替する伝馬と目的地まで行く中馬とがあり、交通の要となっていました。
明治37年から38年にかけて勃発した日露戦争は、日本の勝利に終わったものの、
軍馬は近代戦には向かないと白日のもとにさらした戦争でもありました。
そこで政府は、当時日本で飼育されていた全ての馬を、西欧系の品種との交配によって
改良する計画を発足させます。
昭和20年の第2次世界大戦の終了とともに、この計画も雲散しましたが、それまでのおよそ40年間で行われた国内の馬の改良は、広範にわたるものでありました。
その結果、国内には純粋な在来馬はほとんどいなくなってしまったのです。
戦前は一時150万頭を数えた馬の頭数は激減し、2012年には8万頭程度になっています。
競馬の歴史
近代競馬発祥の地であるイギリスでは競馬は古い歴史を持っています。
その起源は3世紀、ローマ人の支配下にあった時代まで遡ります。
その後も王侯貴族などの間で競馬は途切れることなく続きました。
1660年に即位したチャールズ2世は、競馬の規模拡大と競走馬の改良に情熱を注ぎました。
彼は優美な体系と軽快な運動性を有したアラブに注目し、これ以降の100年間にイギリスには
およそ200頭の中近東産の駿馬が輸入されました。
そして競馬は優秀な馬の選抜淘汰の場という機能を明確に持つようになっていったのです。
イギリスに生まれた近代競馬は、大英帝国の拡張に伴い世界各地に広まり、現在では90ヶ国以上で競馬が行われており、競馬産業は国際的ビジネスとして確立しています。
一方、日本でも馬を走らせて競うということは古くから行われています。
続日本紀になる「走馬(はしりうま)」という記述が最古のものとされていますが、
これは朝廷行事の色彩の濃いものでありました。
平安中期になると、多くの神社で競馬(くらべうま)が行われるようになりました。
この競馬は2頭で50mほどの距離を走り優劣を競うものであったとされています。
これは、祭事的な意味合いが強く、賭けの対象とはなっていなかったとされています。
出典:新馬の医学書
日本で初めての近代競馬は、1862年に横浜で行われました。
1866年には横浜の根岸に競馬場が建設され、翌年春から毎年春と秋に居留外国人を中心に
競馬が開催されるようになりました。
その後、政府の監督下で1906年から競馬が行われるようになり、
1948年に競馬法が、1954年に日本中央競馬会が分布され、いわゆる中央競馬と地方競馬の
開催体制が確立し、現在に至っています。
最後に
いかがでしたか?
地球上に馬と人類が登場してから、ずっと一緒に生活してきていることが伺えます。
最初は人の食料などとしての馬だったかもしれませんが、徐々に人の生活の一部に溶け込み
パートナーとしての存在になり、それからずっと人に近い場所で生活している馬。
そう簡単に飼育できないことから、近いようで遠い存在かもしれませんが
それでも馬は人の近くで生活し人を支えてくれています。
それと同時に人も馬を支えています。
持ちつ持たれつの良い関係ですね。
一番身近に感じられるのは競馬でしょうか。
日本には乗馬クラブもたくさんありますし、お祭りで活躍している馬、
観光地で活躍している馬もたくさんいます。
これをきっかけに少しでも馬を身近に感じてもらえれば幸いです。
第二弾は、馬とはどういう動物なのか?について書きたいと思います。
馬は体こそ大きいものの、実は物凄く大人しくて優しい動物なのです!